「なぜ?」と質問してはいけない part 2
まえがき
※この記事は過去に社内で共有したものの転載です。
以前「「なぜ?」と質問してはいけない」という記事で、『対話型ファシリテーションの手ほどき』という本を紹介した。
この本は途上国支援のインタビュー方法をまとめた本だが、我々の業務でもユーザーインタビューやコーチングとして使えるコツが説明されている。
その中で最初に紹介され、衝撃的だったのが「なぜ(考え、観念)」と聞いてはいけず、「いつ(過去の事実)」などでを聞くのがよく、そうすると「当事者自身で問題に気づき始め、オーナーシップを持ってもらえる」と言われていたことだ。
実際にLIFULLの社長室(※現: 新規事業室)のユーザーインタビュー道場でも参考にされているそうだ。
有賀 和輝 社長室テックG LIFULL Co., Ltd.
インタビューではないですが、こちらも参考にしました。
国際協力の現場、プロダクト開発以上にインタビュー術大切なんですよね対話型ファシリテーションの手ほどき 中田豊一
https://www.amazon.co.jp/dp/499081472X/
ところで、私は最近、チームの振り返り能力の向上や、リモートワークでのストレス対策のために臨床心理学について調べていて、神田橋條治さんの『追補 精神科診断面接のコツ』の『第九章「なぜ」という問い』に似た内容を発見して驚いた。
この本は90年代に書かれた精神科の面接についてのアドバイスの本で、神田橋さんはいわゆる「現場の人」として尊敬を集めていて、言語化しづらいノウハウをうまく伝授するのに長けた方のようだ。
私が彼の本を手にとったのも、『総合臨床心理学原論』という教科書に引用された「抱えてから揺さぶる」という表現に惹かれてである。
「抱える」というのは「あなた、このままで良いですよ」と、そのまま抱えるということ。ところが「揺さぶる」というのは「あなた、変化して下さい」ということ。なので、相手にとっては相当きついことになる。たとえば、「それは心配ないんですよ」と言うことも、相手が不安に思っていることを変えてくださいということなので、「揺さぶる」ことになる。この揺さぶるということは医療の場では必ず起こる。なぜなら、医療というのは現状に問題があるので変わってもらうことが必要となるからだ。カウンセリングの方ではただひたすら受容しろと言う人がいるけれども、それだけでは絶対成り立たない。変わってくれという相手に痛みを強要する要素が必ず入ってくる。そのことをしっかり自覚する必要がある。ただ、その前に必ず抱えることが必要だ。抱えてから揺さぶるということが、医療の対話には必要なのだ。
ユーザーインタビューは少し文脈が違うかもしれないが、エンジニアの中でもメンタリングやコーチングに悩む人にはヒントになると思う。
もちろん違う部分も多いが、それらを比較することで、我々のプロダクト開発に役立つ知見が得られるかもしれない。
本の概要
この章は「なぜ」を使った質問について、次のような問題提起から始まる。
この問いは、あるときはすばらしい新鮮な話を患者からひきだし、あるときは患者を沈黙においこみ、あるときは混乱させた。結果についての見通しなしにこの問いの言葉をつかうのは、危険な賭けであると感じるようになった。
この本は『対話型ファシリテーションの手ほどき』と同じく、「なぜ」という質問の有害性を説明している。
例えば、「なぜ」の質問は「叱責」や「吊しあげ」などで用いられることが多く、誤った意図で伝わることも多い。
ところが、2つの場面で「なぜ」を用いる場合があるという。
1つは「毒針を用いたストレス・インタビュー」という一種の負荷試験である。患者の健康や治療関係を犠牲にしてでも診断を明確にせねばならないとき。この場面に出くわすのは(おそらく何かの事件での)精神鑑定を行うときで、我々にはあまり関連しなさそうだ。
もう1つは、患者の洞察を進展させようとするときに用いられるらしい。
「なぜ」を有益に仕様できる第二の場面は、実は狭義の診断面接の領域ではない。幼児の意欲をかきたて、探究作業に誘うあの作業である。つまり、患者の洞察を進展させようとして問う精神療法技法としての「なぜ」である。この問いを出すとき、精神療法家は、患者が、この疑問文を共有できるであろうと推測しており、若干の努力で患者が解答を得て、今より豊かな状態になるであろうと見通しているのである。当然問いの出される際の二人の関係の中には、よい雰囲気が充満していなければならない。そして、予想に反して患者が困惑したり、探究作業への意欲をかきたてられなかったら、「なぜ」を用いた技法が有害無益に終ったのであり、精神療法の失策であると評価しなくてはならない。
「なぜ」を禁止すると、精神科医の面接技術が向上すると述べている。
「なぜ」「どうして」を連発している幼児が、おとなに依存しているように、「なぜ」を多発しているときの精神科医は、情報収集作業において、全面的に患者に依存している。患者が的確に答えてくれなかったときに、精神科医の中に起こる欲求不満の性状は、幼児のそれと同質のものである。
次のような登校拒否の児童との対話を例に説明される。
- 学年とか、もう随分学校に行ってないのかと問う
- 最後に登校した日はいつかを問う
- 登校する自分、しない自分と二種の自己像が患者の中で形作りやすくなったところで、「前の晩、寝る前に、もう明日は学校に行けないとはっきりしているの?」と問うてみる(多くの登校拒否児は初期のうちは「前の晩には行くつもりなのに、朝起きると登校できない」という特徴を語るらしい)
- (少し詳しく対話する)
- 「学校に行こうという気持ちは分かりやすいから、後回しにして、行けないなーという気持ちの方をもう少し説明してヨ」と問う(極力行けないと気持ちをひき起こした誘引を今分かる範囲で拾い上げ、正当な面があると評価していく)
これは「登校したい正当な気持と、登校したくない正当な気持の葛藤の図式をつくりあげること」ことを当面の目的としているようだ。
多くの登校拒否児は、登校したい気持の方を正義だと思いこんでおり、その気持の中に、実は、親を含めたおとなたちの価値観が押し込まれてしまっている部分のあることに気がついていない。その部分を明確化することで、一過性には虚脱が起こるだろうが、一種の解放感も生じてくる。そして、親を含めたおとなたちの価値観を無批判にとり入れてしまっていたことに気づき、一種の異物化が起こると、ただちに、もっと自分の心底からの気持として登校したい気持もあることに気づくようになる。
このように患者の探究の意欲と能力とが増してくると、ようやく「なぜ学校に行かないのか」という原初の問いの核心が得られたことになる。
ただし、これは模式的なもので、実際には数回の面接が必要らしい。
これは一種の誘導尋問じゃないかという印象もあるが、実際にその印象は正しく、むしろ誘導尋問であることを意識して、その結論に過度に依存するなと主張されている。
専門家が専門の知識と技術を駆使しておこなう問診は、すべて一種の誘導尋問であり、また、そうでなくてはならないし、そのことを意識していなくてはならない。
(この言葉はソフトウェア開発でのエンジニアや他の職種の役割にも示唆があると思う)
ただし、次の3点に留意しよう。
- 得られる質問はかりそめのものである。「なぜ」を連発する精神科医は唯一無二の結論を得たいと思い込んでいる。しかし意識して誘導尋問をしている医師は、いつでも訂正され得る仮説だと承知している。
- とりあえずの仮説的結論に誘導するとき、患者の中に仮説を修正、訂正しやすい精神的活力の方へ近づいていることが望ましい。患者が仮説を盲信するようになっていてはいけない。
- 問診は誘導尋問であるので、全幅の信頼を置いてはいけない。全体の判断をする際に、問診の応答以外(別の章で詳しい説明があり、患者の非言語的な反応や、面接以外での様子など)で得ておかなければならない。
また逆に、患者の方からの「なぜ」は奨励される。
純粋な好奇心や納得できない気持の表明などの意図があり、それに応じた対処が必要だが、どの意図に導かれているにせよ精神科医との関係の中に積極的に関与しようとしており、関係が深まりやすい状態になっている。
メモ
- 深い関係ができた後、相手を「揺さぶる」目的で「なぜ」を使うという方法がある
- 「すべて一種の誘導尋問であって、得られる結論を盲信するな」というのは、技術的な専門職であるエンジニアの立場にも通じる言葉だと思う
- 例えば、技術にまだ詳しくない後輩のメンタリングで、過度に「これってなぜだと思う?」というスタンスを取ると、メンティーは何もヒントがない状態に投げ出されてしまうはずだ