ディスコミュニケーションの積極利用
「鶴見俊輔 混沌の哲学 アカデミズムを越えて」を読んだ。
鶴見俊輔は若い頃に『アメリカ哲学』という本を書いていて、それがけっこう面白くて以来、私は彼の本にハマってる。
この本の中の「漫才とディスコミュニケーション」という章が面白くて、ここでは大衆文化である漫才の歴史を論じた『太夫才蔵伝』の話をしている。
こんな本↓
あほの相互確認の方法が、機械との共生の時代にどれほどの役に立つかわからないが、機械的なかしこさに、人間的なあほらしさをつねに新しく対置してゆくことを、日常の芸として続けてみたい
鶴見俊輔は…というかプラグマティズムの影響下の思想家の多くにも共通かもしれないが、日常的なものを論じてそこから新しい思想を引っ張り出すようなスタイルを取ることがある。
著者が「核心部分」と読んで引用している箇所が次の部分だ。
海外よりすぐれた文化をもつ人びとが来る。その新しい文化をすみやかに身につけて支配層が語り始める。それは理路整然としているようにきこえ、そのものいいを身につけていない人には、すぐさま言い返しができない。そこでべしみの表情を作る。その沈黙の底の方から、形のくずれた掛声、言いちがえ、その他さまざまの身ぶりがうまれて、太夫の型通りのものいいに対する、すれちがいの劇的展開となる。しかし、太夫にしても、相手の悲しみ、そしてその人間らしさがわからないでもない。やがて相手の身ぶりとものいいに感染して、べしみの芸は太夫・才蔵のやり取りの通底器になる。/古代にすでにつくられたこのやり取りの原型は、朝鮮渡来、中国渡来、ヨーロッパ渡来、米国渡来、ソ連渡来の指導文化に対する、それに習熟しない日本人の側からの沈黙による応答の形として太夫・才蔵のやり取りにあらわれた。支配者のなめらかなことばは、それをあやつれない民衆にとっては、一種の暴力である。これに対する沈黙にかざりをあたえたものが、形のずれた言葉としての万歳芸だった。とすれば、ここには、朝鮮・中国・ヨーロッパ・米国・ソ連などの舶来の教養にそのまま一体化するものではない日本文化の弾力性があらわれていると言えよう。
ここでいう「べしみ(癋見)」はしかめっ面の能面のことで、ジャッキー(※同期のすごいエンジニア)とかがなんかすごいことを言ってるけど、あんまり理解できなくて悔しいときの私の気持ちを表していると思うw
それで、「ボケとツッコミのかけあいは、異文化をソフトランディングさせる役割がある」みたいな議論でもあるらしい。
「日本の文化って伝統思想と外来思想が雑居してるだけなんじゃね?」「外来思想が十分に根付かず、伝統思想も発展しなくて教条的になる」みたいな議論が(世間でも)よくあると思う。
それに対して、
日本の大衆は、半身の部分で地に足をつけて分を守りながら、半身の部分で現実を乗り越えるような動きをする。その「半身性」が漫才の基礎になっていると考える。大衆は「伝統思想」に身を置きつつ、「外来思想」への憧れや違和感を笑いのうちにこねくりまわし、危ういながらもバランスをとっていく。そうしたしたたかさを鶴見は描こうとしているように見える。
プロダクトマネジメントとかもいわば外来思想で、海外の法律や文化を前提にしている部分も多いので、もしかしたらこういうユーモアを持つことが苗代のような役割を持つことがあるのかも。
また、著者は、鶴見俊輔のデューイ研究と繋げてディスコミュニケーションについて面白い論じ方をしている。
鶴見はここから、同じように「完全なるコミュニケーションの神話をかかげるユートピアニズム」であるデューイの哲学の批判に向かう。(中略)デューイの発想は、アメリカの中産階級の生活習慣や生活水準の同一性の基礎のうえに成り立っているが、実際には、二人以上の人間がいる限り、そこには階級間、民族間、男女間等々の何らかの相違があり、ディスコミュニケーションが消滅することはありえない。むしろ、ディスコミュニケーションを撥条(ばね)にした思索の跳躍さえ望まれる。通信可能な共通領域と通信不能な私的領域との相互作用が、思索を前進させていく。ディスコミュニケーションを根絶しようとするのではなく、コミュニケーションとのあいだの均衡関係をずらしていくことが問題であると鶴見は考える。
↑余談だが、鶴見俊輔はデューイになぜか当たりが強いことが多い。鶴見さんのデューイの読み方もちょっと偏ってる気がする。
ディスコミュニケーションを恐れず、むしろそこから学問や評論は跛行的にであれ前へ進んでいく、ということだろう。
無理に議論を繋げてるような気がしないでもないが、面白い議論だと思う。
正直、ある人が言っていた言葉の意味が後から分かることなんていくらでもあるし、なんならその人が意図したのとはズレた形で(だけど自分にとっては大事な形で)伝わることも割とあると思う。
そういうときに、あえて漫才的なズラしたコミュニケーションを取って会話を続けるのは、現実のやり取りでもアリかもしれない。
そこからまた別の村落共同体の「寄合における全会一致制」の話と横断して議論している。
話し合いは、つねに脱線してジグザグにしか進まない。議論の場というよりも、宴に近い風情がある。このように効率性を欠いた意思決定システムは、時間がよほどゆっくりと流れている社会にしか適合的ではない。漫才の掛け合いというディスコミュニケーションをこのシステムに重ね合わせて見ると、鶴見が注目していたのは、全会一致制の結果として決定事項が遵守されるというメリットのほうではなく、むしろジグザグに進行する跛行的プロセスそのものにあったのではないかと思われる。よもやま話の中で、お互いの人格の触れ合いがあり、共同意識が醸成され、自己の変容までが起こる。それこそが「村の生活」を現代の「サークル」へとつなぐものだった。
さすがに自分たちの会社コミュニティでは意思決定は必要だが、こういう「脱線してジグザグ」みたいなのはアイスブレイクの雑談みたいなものか?
「学習する組織」にあった対話の概念や立ち位置にも近い部分がありそうだが、あれは「複雑で難しい問題を、様々な観点から集団で探求する」という目的があるのに対して、こちらは「ズレ自体を楽しんで包摂してしまう」みたいな別のスタイルも含んでいる気がする。
この著者は鶴見俊輔の考え方の可能性を引っ張り出している気がして、鶴見俊輔自身もおそらく言語化できていなかったような部分だと思う。
自分が『太夫才蔵伝』を読んでも「へ〜、漫才って伝統文化から出てきてるんだ」くらいしか読み取れなかったので、「大学の教授(思想史の人らしい)ってすげえな」って思ったw