リップマン=デューイ論争について

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※この記事は2023年2月に社内で共有したものの転載です。

デューイはクリティカル・シンキングや経験学習、アクティブラーニングなどの考え方に強く影響を与えた人で、(会社なども含めて)教育や民主主義について考えた人だ。

組織開発の探究』という本でデューイが引用されていて、それを哲学好きな部長のSさんに薦めたところ、次のように引用してもらっていた。

ジョン・デューイ

超訳:「経験から学習することで、知見が得られる」

人間とは「知識を貯め込む容器」のような存在ではなく、「能動的に環境に働きかける存在」である

人間は能動的に環境や他者に対して働きかけてくときに、「経験」を積むことができる

「経験」に対するリフレクション(反省的思考)を通して、人間は知を形成することができる

ただし『組織開発の探究』でも、デューイの意見はある意味で「青臭い正論」と表現されていて、「最初は彼の世界観を目指すべきだが、うまくいかない場合もある(血なまぐさいことも行わなければならないシーンもあってつらいよ…)」みたいなことが書かれている。

私もその通りだと思っていて、彼の思想は割と楽観的で、一般市民の能力やリテラシーを過度に高く見積もりすぎている印象を受けることがある。

(私たちがコミットメントできる)あるべき会社の仕組みみたいな面で考えても、中原さんの言うようなカバーできない範囲はあると思う。

そこで、リップマン=デューイ論争という、民主主義のあり方についての議論が、何かしらヒントとして(少なくとも論点の整理に)役立つんじゃないかという気がしている。

リップマンはアメリカの初期のジャーナリストで、「世論」「冷戦」「ステレオタイプ」などの言葉を提案した人だ(←この意味で、リップマンは社内でダイバーシティ等を考えている人にも読んで欲しい)。

公衆に期待しない — 論駄な日々

リップマンの民衆観はおそろしく悲観的である。『世論』のなかで描いてみせたように、人びとは疑似環境のなかでステレオタイプを通じて世界を知る。大規模に複雑化した社会において、一人の人が触れることができる知識は相対的に小さくなる。いくつもの高度に専門化した諸問題を処理するだけの時間も能力も、人は持ち合わせていない。またそうしたことを期待することは無理難題だし、デモクラティックな社会を生きる「公衆」を教育できるとする人びとこそ、欺瞞ではないか--というような主旨のことをリップマンは論じる。乱暴なまとめ方かもしれないが、一般民衆に期待するよりも、エリート層をしっかり育成すべし、である。

「一人の人が触れることができる知識は相対的に小さくなる」というのはおそらくその通りで、今の世の中は複雑すぎて社会問題もよくわからんし、会社内に問題を限っても考えることが多すぎる。

ウォルター・リップマンとジョン・デューイ

リップマンは、民主主義を飼い慣らすために、科学的管理を行う知的エリートを主張した。 リップマンの思想は、リベラリズムとエリート主義を融合させたものだった。 一方、デューイは、科学に多くの時間を費やし、科学が人間の存在の外にあって、その上に立つものだとは考えなかった — 彼にとって、科学的知識は人間が作り出した知識である。 民主主義の問題は、産業生活の官僚化、非人間化、経済勢力が直接強制や脅しによって、あるいは間接的に世論操作によって、政府における利益を確保することと関係していた。 その治療法は、市民生活と報道を結ぶコミュニケーションのシステムであった。 デューイにとって、民主主義の問題に対する答えは、より参加型の民主主義であった。

あんまり読み込めてないが、リップマンは「賢いチームがトップダウンで意思決定すべきで、ただそこから出てきた政策を、公衆がうまくレビューする仕組みを作る」みたいな構想なんじゃないかって思う。

(私はLIFULLに限れば、「基本的にチームがプロダクトに対応して意思決定する」みたいにアメーバ経営的なものを軸に、「経営層やプラットフォームチームが全体最適にするための調整し、プロダクトチームがそれを自分たちの文脈に合わせてpullする」みたいな形がいいんじゃないかと思っている)

おそらくこの論争に近い話は、会社の組織がある程度大きくなり、専門化が進んだ会社組織で出てくることで、我々の参考にもなると思う。

LIFULLも創業者社長なだけあって、ベンチャー的な気風が割と残ってる(気がする)が、チームや社員の当事者性と、全体最適からかけ離れない意思決定を両立できる良い構想とかも現れてくるべきだという気がする。

まだ話すべき点を洗い出せてない気がするけど一旦終わる。

Sさんとのこの記事についての会話

Sさんから

読む限りでは、リップマンは大衆にはエリートを定期的に交代させる権利しか持たせてなくて、エリートの政策は大衆ではなく科学者や情報部門にレビューさせようとしてるな

会社で言えば、経営者や管理職がコンサルと相談しながらトップダウンやってて、メンバーは360°評価やESで彼らにイエロー/レッドカードを提示できるとかそんな感じかなと

Sは社会においても会社においてもエリートなんてそんなに信用できないだろ派なので、よりデューイの言い分の方にシンパシーを感じるね

私の返答

ああ、リップマンの言い分は、代表民主主義+専門家のレビューみたいな話だったんですね

日本だと、コロナ対策とかで想像するものに近そうですね

リップマンは多分「ジャーナリストが果たすべき役割は何か」みたいな観点で考え始めてるので、そこの視点が強い気はします

また、Sさんの話で、PM界隈では流行ってる「途上国の人々の話し方」の内容にある話を思い出しました。

これと同様、大企業化や分業化で「個々のチームやメンバーの能力が本来ありえるポテンシャルより落ちてるんじゃないか」みたいな疑念は感じることあります

> 他にも「大正時代の日本も貧困だったが、自分たちの手で水道を引いた話を(メタファシリテーションの方法を使ったら)親から聞いた(※筆者の一人は60代)。途上国の人びとが自分たちの生活にオーナーシップを持てていないのは国際支援のせいじゃないか?」と悩んだり、資本主義経済の中で計画性を持つ必要性に気付かせたり、面白い部分は多い。

Sさんの返答

そう思う

なのでデューイ的なやり方は、それこそビジョンや内発的動機(デューイの場合は”衝動”か)とか、心理的安全とか、会社でやるなら場合によっては報酬制度とか、とセットでないと成り立たないんだろうな

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Takeshi Ninomiya

https://qiita.com/ninomiyt このサイトに記載する内容は私個人の見解であり、株式会社LIFULLの立場、戦略、意見を代表するものではありません。