「公・私領域の連続性の主張」について

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リップマン=デューイ論争について」の後、リップマン=デューイ論争が気になって、デューイの『公衆とその諸問題』を読んでた。

リップマンの民衆観はおそろしく悲観的である。『世論』のなかで描いてみせたように、人びとは疑似環境のなかでステレオタイプを通じて世界を知る。大規模に複雑化した社会において、一人の人が触れることができる知識は相対的に小さくなる。いくつもの高度に専門化した諸問題を処理するだけの時間も能力も、人は持ち合わせていない。またそうしたことを期待することは無理難題だし、デモクラティックな社会を生きる「公衆」を教育できるとする人びとこそ、欺瞞ではないか--というような主旨のことをリップマンは論じる。乱暴なまとめ方かもしれないが、一般民衆に期待するよりも、エリート層をしっかり育成すべし、である。

リップマンの上記のような主張に対して「公衆として教育しよう」というのがデューイである。

哲学の本なので本文はほとんど意味わからなかったが、あとがきのこの文言が気になった。

(こういう本は、まずあとがきしか分からないを読むと勉強になる)

こうした視角からすれば、デューイの見解の中には、アメリカの伝統的発想がきわめて明瞭に反映しているといってよいであろう。地域共同社会の中に「民主主義」を探ろうとする試み、公衆の多元性、公・私領域の連続性の主張などは、すべて一面においてはアメリカ的発想の再確認、再把握に他ならぬのである。

特に「公・私領域の連続性の主張」がベースになっているという主張は面白い。また、私はタウンミーティングみたいな発想に惹かれやすいが、それは自分がプログラマー(割とアメリカ人っぽい)でプラグマティズムの本を読みまくってるせいでもあるかもしれない。

すなわち、まず第一に公的領域と私的領域とが連続的に理解されているということである。両者の間に明確な一線を劃することはいちじるしく困難である。こうした発想によると、たとえばわれわれが家族の間で何ごとかを話す時に、それが話し手と聞き手以外の第三の家族成員に重大な影響を及ぼすとすれば、その行為は公的なものとみなされることになるであろう。この場合には、家族全体が公衆の位置を占める。ただ、町全体とか国家全体とかを基準にとれば、第三者に及ぼされる影響は無に等しいから、こうした行為は私的領域に属するとされるのである。こうした発想はわれわれの日常生活においては必ずしも新奇なことではない。

これはプロダクトチームでもその通りで、私は開発者は「public」の感覚を持つべきだと思っている。「他のプロダクトに影響ある話」とか「全体最適に関わる話」はチームの外も関わるpublicな問題で(そして全体最適を目指すならできるだけpublicであるべきで)、privateな問題はそのチームがownershipを持って意思決定すべきだと思う。その時に「public」は割と感覚的に話されているが、この基準は役立ちそう。

ただこれ当たり前じゃね?議論分かれる点ってあるの?と思ったら続きが

問題はただ、企業-家庭という関係と、国家-個人という関係とを同質なもの、あるいは同一水準にあるものとみなすことが妥当か否かにある。西欧的近代国家の発想においては両者は明確に区別されてきた。(中略)企業の原理は能率であり利潤獲得であって、それが国家と原理的に異なるものである以上、同一の原理が適用されるべきではないとされるのである。(中略)しかし、デューイの見解からすれば、家族内に成立する公共性も国家の水準で成立する公共性もその本質は同一だとされる。そこに大きな転換がみられることは明らかであろう。

これはそうかも。

「プロダクトチーム」の文脈に置き換えて考えてみると、あとジャッキーとか自分は、チーム内部のメンバー間で成立する「公共性」と組織全体で成立する「公共性」が同じものだと考えているように思うので、やっぱりソフトウェア文化を通じてアメリカっぽい考え方が影響してるんだと思う。あと「個人のキャリア」と「組織の成功」みたいなのに対しても似た感覚を持ってそう(だけど、これは別で考えるべきだっていう考え方もあり得ると思う)。

あとAmazonレビューのこれも面白い。

リップマンは『 世論 』でマス・メディアが一方的に情報を発信することでステレオタイプが形成される様を描きました。そして続く『 幻の公衆 』では「ステレオタイプが生まれるような状況下で公衆(理性的に判断できる民衆)は存在できるのか?」と問いました。本書『公衆とその諸問題』はリップマンの問いに対するアンサーです。
デューイは「政治とは何か?」、「民主主義とは何か?」と問いつつ「民衆が互いに情報を共有し研鑽を積むことで公衆になる」と説きます。デューイの答えは当時から「当たり前じゃないか」、「古臭い」と評価されていたようです。「リップマン=デューイ論争」においてデューイの意見があまり言及されないのもそのためかもしれません(それ以前にデューイの文章が分かりにくいというのもあるでしょう)。
とはいえリップマン=デューイの時代に比べ情報網が発達したのも事実ですし、ある意味でデューイ望んだ舞台が整ったともいえます。ただマス・メディアの影響力はまだまだ強大ですし、個人が発信する情報はバイアスがはっきりしないので公衆の判断を鈍らせてようにも見えます。またデューイは大共同社会への発展を望みましたが現状は無数の小共同体がネット上に散らばっているだけです。
私たちはリップマンとデューイの宿題をまだ解決できていないのかもしれません。

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Takeshi Ninomiya

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