正義 vs ケアの論争
ロールズの正義論や「オバマを読む」の影響で、最近はプラグマティズムや倫理学のような内容について調べていた。
その中で『正義とケアの現代哲学』が面白い内容で、プラグマティズムを紹介して、ロールズ(リベラル、公正) vs ノージック(リバタリアニズム)の話だが、その後に「正義 vs ケア」という新しい軸で紹介されていて面白かった。
東畑開人さんの『いるのがつらいよ』にあった「現代だとケア的なものが評価されづらくてつらいよね」って話を更に深堀りできそうな内容だった。
近年(主に)女性の哲学者が「ケアの倫理」を提唱して、「どちらの立場とも自律的な個人を仮定してるけど、実際は他者に依存してるよね」って主張し始めて、『正義とケアの現代哲学』はそれをロールズ的な立場と統合するような内容だった。
最初に提唱したのがキャロル・ギリガンという人で、従来の公平・公正の議論は「家族が命に関わる病気の人は薬を盗むべきか」という数学のような問題として定式化してしまうことを批判しており、「ケアの倫理」はむしろ「助けを求められる側が、どのようにその人の声に応えるべきか」という問題として考えるべきだと主張しているようだ。詳しくは「ケア倫理の人類学」のサイトを見てほしい。
ギリガンの被験者である、ジャックという男の子は、刑務所に入ってもハインツは奥さんを救うために薬を盗むべきだと答える。他方、エイミーという女の子は、盗むべきか/断念すべきかという問いの立て方に対して、薬剤師に話して緊急の事態であり、説得すべきだという問いが前提にする判断とは別のアプローチを考案する(端的に言えば、それこそが関係性の倫理すなわち「ケアの倫理」だということができる)。ギリガンは、コールバーグの論理だと、エイ ミーの判断は「社会的視点」から「原理的な考察」に至る段階で止まっているとするところが(コールバーグ自身の) 問題だとするのである。
ただ、他に読んだ『ケアリング―看護婦・女性・倫理』では、「ケアの倫理は大きく文脈に依存していて、それだけに従うと自分の”気持ち”に無批判に従ってしまうことにある」ということも主張されていた。
こちらの本では、終末医療に関わる看護婦が「安楽死を求めている人に応えるべきなのか」という視点で書かれていて、「自分の感情だけでなく、普遍的な原則にも基づいて方針を主張しよう」という一応の結論を出している。
公平を原則としない配慮を無反省に主張すると、さまざまな社会構造に対する批判的な視点が失われて、「もろもろの社会的な役割を批判的に吟味することができなくなり、そのような役割は公平を原則としない配慮を守るものだと考えてしまい、批判的な価値判断を失って」しまうことになりやすい。
また、法やルールを考える立場からすると、ケアの倫理だけでは「じゃあどうやってルールを決めればいいんや」って思ってしまうとも思う。
余談だが、キャロル・ギリガンの『もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』は、多くのテキストで引用されているのに古書で3万円以上することを多くの人が嘆いているようだ。
再版してほしい。